2010年 07月 23日
雨岳文庫 |
「雨岳文庫」は、元治元年(1864年)から数年を掛けて建設され、明治2年(1869年)9月15日から10月26日に上粕屋石蔵に建っていた民家を500m程離れた現在地へ曳き屋の記録が残っている豪農です。曳き屋部分は大黒柱が尺4寸、刺し鴨居の成も同寸の総欅つくりで小屋梁は松の大木が組み合わされている、間口4間半奥行き6間の建物で当時これを道を確保しながら延べ930人が曳き屋に従事した大工事だったようで、沿道には出店が出るほどの賑わいを見せたそうです。
現在、山口家住宅は「雨岳文庫」と称しています。「雨岳」とは神奈川県の民権運動の指導者として名を馳せた人物として知られる8代目当主左七郎の雅号で、大山(雨降山)の事だそうです。その山口家は江戸時代間部氏の上粕屋村の名主を勤め名字帯刀を許された家柄です。
曳き屋は土間と茶の間が中心で、その奥に新築で栂普請の座敷が作られ、二階にはお殿様を迎えるべく計画された数寄屋造りの座敷が二間あります。母屋の東に続く茶室風の離れは、明治の陸軍大演習の時総帥宮家宿泊用に急ごしらえの普請で、接待用の浴室があります。
造りの素晴らしさに目を奪われる一見の価値ありの民家です。見学は「NPO法人雨岳文庫を活用する会」0463-95-0002にお問合せください。
現在、山口家住宅は「雨岳文庫」と称しています。「雨岳」とは神奈川県の民権運動の指導者として名を馳せた人物として知られる8代目当主左七郎の雅号で、大山(雨降山)の事だそうです。その山口家は江戸時代間部氏の上粕屋村の名主を勤め名字帯刀を許された家柄です。
曳き屋は土間と茶の間が中心で、その奥に新築で栂普請の座敷が作られ、二階にはお殿様を迎えるべく計画された数寄屋造りの座敷が二間あります。母屋の東に続く茶室風の離れは、明治の陸軍大演習の時総帥宮家宿泊用に急ごしらえの普請で、接待用の浴室があります。
造りの素晴らしさに目を奪われる一見の価値ありの民家です。見学は「NPO法人雨岳文庫を活用する会」0463-95-0002にお問合せください。
by kakian-teishu
| 2010-07-23 16:47
| 家づくり